2001年9月1日の約束

「中原小学校タイムカプセル開封の日」


2001年9月1日、澄み渡る秋空の下で中原小学校タイムカプセルが開封されました。

始業式が終わって、下校の途に着く在校生がその会場の準備に、何事だろうと小首をかしげています。

垂れ幕が掲げられ、記念碑の周りもきれいに掃除されました。タイムカプセル委員会のメンバー、町の職員たちにより、テントが張られて会場の準備が整っていきます。13:00を回ったあたりから、懐かしい顔が会場のあちこちに見受けられます。開封の瞬間に立ち合おうと本当に全国から、あの時の仲間が集ってきたのでした。
本当に北海道の友達がやって来てくれました。三十年ぶりの再会です。
横浜から、このHPを見て駆けつけてくれた方もいらっしゃいました。町内から自分の子供を連れて参加してくれた仲間もいます。足を痛められて、歩くのが大変な恩師の方も駆けつけてくれました。

あの時はみんな同じ小学生だった仲間は、父となり母となり、そして家族を連れて参加してくれています。まだ乳児の赤ちゃんから、まだまだお元気な恩師のおじいちゃんまで、たったひとつの「約束」のもとに、今日の日のために駆けつけてくれたのでした。

それは本当は小さな約束だったのかもしれません。赤茶けた銅版に書かれた「昭和76年9月1日に取り出すこと」というたった一言の約束に過ぎなかったのかも知れません。
だけど、その心の絆は三十年の時を超え、ここに再び結ばれたのでした。思い入れかも知れませんけれど、それぞれの心にある「故郷」というものへの絆として、その約束は生きていたのでした。

末安伸之町長の挨拶により「タイムカプセル開封式」は開幕しました。今年45歳になられる町長は、このタイムカプセルが作られた時は中学校に通っておられたのでした。

当時の栗山町長はすでに他界され、福光校長先生も逝去なされています。また、悲しい事実ですけれど、タイムカプセルの乗組員の仲間も亡くなられている方々がいます。式典の冒頭で、故人の方々への黙祷をささげる事になりました。
懐かしい先生方の顔が見えます。大塚先生、田口先生、真子先生・・・実はみなさん、あの頃は今の私たちよりも若かったのですね。
吉田先生より、当時のタイムカプセルにまつわる秘話が公開されました。驚いた事にタイムカプセルの中に納められた作文は、落成式当日に教育委員会より依頼され、その日の午前中にあわてて各クラスに依頼し、書いてもらったということでした。それをクラスの担任が持ち寄り、大急ぎでその日の午後の落成式に間に合わせたということです。
ほんとうに三〇年ぶりに知らされた、タイムカプセルの誕生秘話でした。

先生方の懐かしい話も終わり、ついにタイムカプセルの開封の時がやってきました。

記念碑裏側の碑文が書かれたプレートにバールが入れられ、銅版を覆ったコンクリートがはがされていきます。
四方がボルトで留められているためなかなか外すことができません。当時は無かった植え込みの上から、タイムカプセルの開封の瞬間を見つめていました。
1971年のあの日、タイムカプセルを入れた6年3組の輪竹ゆかり(現・下川)さんの手によって三〇年ぶりにタイムカプセルが取り出されました。一緒に取り出してくれたのは在校生の六年生の女の子です。

球形のタイムカプセルが一基と、金属の箱が出て来ました。HPに掲載されていたような二基のカプセルではなくて、ひとつのカプセルと金属の「お弁当箱」が記念碑の空洞にぴったりと納められていました。そして、その金属のお弁当箱の中から、ビニールに包まれた原稿用紙の束が、ほとんどその当時のままの姿で取り出されたのでした。(画面左が球形のタイムカプセル。右が「お弁当箱」のタイムカプセル。)

「撤収!」の掛け声が、会場から僕たちが逃げ出す合図でした。式が始まる前にテントを建てながら「中身の腐っとったら、おいが撤収て叫ぶけんが、他んことはほったらかして、一挙に逃げんといかんばん。」という打ち合わせが水面下でタイムカプセル委員会のメンバーに告げられていたのです。(^-^;
町をかどわかし、同窓生を引っ張り込み、小学校を巻き込んで、ここまできてカプセルの中身が空っぽだったら、それこそ浦島太郎の玉手箱になってしまいます。僕たちタイムカプセル委員会は密かにその時の会場からの脱出計画を企てていました。そのため、僕は司会者のマイクをぶんどり、さも実況中継をすべく、輪竹さんのとなりでカプセルが開かれる瞬間の現場に介入していたのです。(^-^;
お弁当箱のタイムカプセルが開かれ、その中身が確認された時、僕の頭の中には「よかった・・・。」という言葉しか浮かんで来ませんでした。輪竹さんが作文を取り出して、みなに披露すべく頭上に掲げている間、僕は「これでまだ上地に住むことができる。」と本当に思っていたのでした。

お弁当箱のタイムカプセルから取り出されたものはビニールに包まれた五つの原稿用紙の束でした。

残念ながら、一年会の作文の束は出て来ませんでした。各学年会の束も全クラスあるのかは今日は確認できませんでした。球形のタイムカプセルからは「小学校の建設計画」の覚書が出て来ました。それと当時の教職員の名簿と、福光校長先生の名刺が一枚格納されていました。
格納品を点検しながら、この瞬間に立ち合えた同窓の仲間たちは何を思っていたのでしょうか。本当にカプセルの中には、あの頃の私たちが格納されていました。三〇年前の自分が、そのまま取り出されたのです。

あの時代への思い入れだけが、絆として故郷への憧憬心を育んでいたのは確かです。そして、本当にこの作文が存在していたと言う事に、僕は感謝の念を覚えずにはいられませんでした。先人の想い付きかも知れない酔狂に、振り回された事を感謝せずにはいられませんでした。

僕は自分の子供と、時々「約束」をします。ほとんどはこちらが忘れてしまっていて、「お父さん、あん時、約束したろうが。」と詰め寄られることが再三です。「そうやったっけ?」とはぐらかしながら、頭の中でその時の約束を思い出していたりなんかしてます。

中原小学校のタイムカプセルも、そんな約束事のひとつだったと思います。でも、それは私たちが子供だったから覚えていたのでしょうか?あの時の大人たちと交わした約束だったから憶えていたのでしょうか?
僕はあの時の大人たちが、熱中していたから覚えていたような気がしてなりません。村が町に代わり、小学校が新築され、「未来」が作文に書かれました。タイムカプセルが校庭に建立され、校内を「にわか」が練り歩き、浮流の「道ばやし」が廊下に響き渡りました。
町を挙げ、村を挙げ、その時の先生、父、母、そして町中の大人たちが、夢中になって騒いでいたから、私たちの心に残っていたんだと思います。子供たちを巻き込んで、夢中になって騒いでいた先人たちの輝きが、約束と言う絆として私たちの心に残っていたんだと思います。

1971タイムカプセルの物語はここで完結したのかもしれません。タイムカプセルの記念碑も本日、校庭より撤去されました。20世紀の約束は履行され、私たちの作文は三〇年の旅を終えました。
だけど校庭を見回して見ると、これから「未来」へと旅立っていく子供たちがいます。約束が履行された事に立ち合った大人たちもここにいます。過去と現在をちゃんとつなぎとめて来た私たちは、この子供たちと「未来」への約束が交わせるかも知れません。それが新しいタイムカプセルの物語になるのかも知れません。

 

浜尾 道孝(2001.9.1)