風神のトピックス
「九千部の初冠雪」 2005.12.5 昨夜から降った雪が明け方にはうっすらと積もっていました。 今年は暖冬で11月までは暖かかったんですが、12月に入って冬らしい気候になってきました。 私の家の屋根にも雪が積もりました。 写真は国道34号線から長崎本線越しに見える九千部の山です。地図上の九千部山は見えません。 地図上では「石谷山」となっているところが九千部伝説の地で、ここが地元では「九千部山」と呼ばれてきたと思われます。 長崎本線を走っている電車は現在はワンマン運行になっていて、運転手さんが一人だけ乗務しています。無人駅では運転手さんが改札も兼ねるため、乗客とのコミニュケーションも深まっているのかも知れません 右中央に見えるのが母校・中原小学校です。築35年の母校は外観はきれいですけれど、屋内はだいぶんくたびれてきているとか。 自慢の暖房設備も近年は稼動してない日が多いのかも知れません。 |
「九千部詣で」 2005.9.19 二百十日の9月1日は「九千部詣で」の日です。 早朝に地区の氏子衆が集まって、石谷山の南西斜面の風神さまの御神体にお参りします。 綾部神社の吉戒宮司の御祓いがあり、参列者でお神酒をいただいた後に下山します。 この場所は「九千部伝説」にある僧侶・隆信沙門が祈祷地としたところです。 祈願目前にして潰えた僧侶の死を悼み、風の谷の村人達はここに二柱の風神と共に隆信沙門を祀りました。 後に吹き流しをあげたとの伝承もこの地が発端です。(「旗上げ」の起源とも言われている) 約250年後に綾部神社が勧請され、この風神さまを祀る事になります。 通常、風神は男女二柱で祀られますが(写真下右二柱)、中原の風神は隆信沙門の供養塔を左に配して三柱で祀られています。 これは全国的に見ても大変珍しい事らしいです。 特に私が感心した事は、当時の里の民の困窮を憂い、法華経一万部読誦の祈願半ばに潰えた若き僧侶の死を 1050年経った今も村人の末裔達が忘れずに参拝を続けているという事でした。 毎年、9月1日に、親から子へ、そして孫へ・・・。 私はこの地に生を受けて45年になりますけれど、やっとこの年になってそのことを知りました。 「風神の末裔」というタイトルを掲げながら、ちょっと恐縮した次第です。 |
「原古賀の踏み切り」 2005.1.6 平成17年も無事に明けました。 写真は原南や東寒水・西寒水の出身の人なら小学校に通うときに毎日通った原古賀の踏み切りです。 昨年、東寒水の村山商店がお店を閉めたことをご報告しましたけれど写真右に見える三階建ての 菊池化粧品店も昨年暮れで店仕舞いしました。 菊地化粧品店の長男の博孝くんは今「中原さよならまつり」の実行委員として一緒に開催に向けて奔走してくれていますけれど、 お店の方は一足先にさよならとなった次第です。 理由は老朽化だとか。。(えっ^^;て感じですけれど) 博孝くんは会社員で解体後に普通の住居を建てるそうです。 菊地化粧品店は中原村で唯一老人センターとならんで三階建ての建物でした。 お姉さんが私の同級生だったので遊びに行ったこともあるのですがやっぱり三階に昇らせてもらいましたね。^^; そのころのイメージで堅牢な家屋の印象が強く残っているんですけれど年月はやっぱり正直に流れていました 屋上で久留米の花火大会を観ながらお酒を呑んだ事が懐かしく思い出されます |
「さらば中原町」 2004.11.1 平成一六年九月、中原町・北茂安町・三根町による合併協議会において「みやき町」の誕生が決定しました。 これにより、明治22年より116年間続いた行政区としての「中原」は無くなります。 中原小学校や中原中学校は「みやき町立」としてその名前を留めますが、住所表示などは「佐賀県三養基郡みやき町原古賀」に変更されます。 地域性なのかもしれませんが合併協議への住民の関心は高かったとは言えません。 そんな中、消え行く「中原」の町名に名残を惜しむべく「中原さよならまつり」が有志により企画されようとしています。かつてのタイムカプセル委員会のメンバーが発起人として名を連ねています。 「中原さよならまつり」の期日は2005.2/27(日)を予定しています。 当HPに立ち寄られた中原の縁者のみなさん、中原町の幕引きのイベントに参加してみませんか。 (・・・・・って^^;;まだやっと準備会の段階なんですけれど。。。) |
「祭りの前」 2003.9.15 浮立を九日後に控えて、綾部神社の境内で準備があわただしく行なわれました。 氏子衆に加え、地区の子供クラブ会長さん達が総出で、道具の手入れや飾りの作成がおこなわれました 写真は太鼓の上に飾る花飾りの作成風景です。竹ひごに花を飾り、間に大豆と黒豆が付けられているのが分かるでしょうか? 昨年の飾りを見ながら新しく作っているところです。 祭りの飾りや道具の手入れは全て一緒に作業しながらの直伝です。氏子衆の方々や宮司さんの指揮で準備は進みます。マニュアルでもあれば便利なのにと思われるでしょうが、それでは伝わらないものがあると僕は感じています。 |
「綾部神社の神旗」 2003.7.6 このHPのタイトルにもなっている風の神さまの神事「旗上げ」がもうすぐ行なわれます。 お祭りを前に綾部神社の吉戒宮司に旗上げにまつわるお話をお伺いしてきました。 旗上げの神事そのものは800年ほど前から執り行われている神事だそうで、 毎年7月の15日から9月24日までの間、境内の公孫樹の大木に掲げられた旗を、宮司さんが朝夕二回観測して天候の予測をたてられます。 古来から続いてきた観測方法を、先代宮司の頃からは、記録として残してあるそうです。 近年は7月20日に、長期予報を社務所に貼り出しているということで、参拝される方は社務所の方にもお寄りくださいとの事でした。 旗の形状をもとに天候を予測されるのですが、 その他にクモの巣の張り方やその年の鳥の巣のかけ方なども判断の材料としてあるそうです。 宮司さん曰く「マスコミの方などは当たり外れの予報として、的中率に殊更興味をお持ちのようですが、 自然の成り行きを風が伝えているのですから、当たるとか外れるとかではなくて、その通りにしかならないんですよ。」 作物の実りが確かな価値だった時代に、綾部周辺の天候を予測する術としてこの神事が続いてきたことは、 この里の民の風の神様に対する畏敬の念だったんだと思います。 |
「中原中学校旧校舎空撮」 2003.5.19 木造平屋の中原中学校旧校舎の写真が見つかりました。 校庭の人文字が五輪のマークを模っているところをみると1964年の東京オリンピックの年に撮影されたものだと思われます。 中原中学校は昭和22年に小学校の仮校舎で開校されました。昭和24年に姫方に移転して昭和50年までこの旧校舎は使われました。 中庭のひょうたん型の池も確認できます。中央の渡り廊下、北側の講堂、講堂横は技術工作室ではなかったでしょうか。 姫方の鎮守の森がまだそのままに残っています。 実は私は小学校と中学校で四つの校舎に学びました。共に旧校舎に入学し、解体と建築の音を聞いて、新校舎で卒業しました。 ちょうど時代のそんな節目を学校生活の中で体感してきたんです。 あれから30年、次の節目はどの世代が体験するのでしょうか。 |
「ナーミーちゃん」 2003.4.13 ナーミーちゃんは中原町のマスコットキャラクターです。写真は庁舎外周の歩道に埋め込まれたタイルです。 何年前になるかは忘れてしまいましたけれど、町のマスコットキャラクターの公募がありました。 私も、綾部神社のイチョウの木を父に、風の精を母に持つ「フーちゃん」というキャラクターで応募しましたが、次席でした。(^^ゞ たしか、ナーミーちゃんの製作者は福岡のデザイナーさんだったと思っています。 副賞の10万円を狙っていたんですけどねぇ。。。σ(^_^; 実は、個人的に自作の「フーちゃん」というキャラには思い入れがあって、 どこかで発表の場があれば描いてみたいと思っています。(σ(^_^)ちょこっとマンガ製作の仕事もしています。) 最近、中原の歴史を調べていて、そういうものを織り込んだマンガにしたいと思っているんですが・・・。 |
「タイムカプセル余話」 2003.2.28 早いもので、中原小学校タイムカプセルの開封から一年以上の月日が経ってしまいました。 一部は写真で当HPに保存してありますけれど、 写真には残っていない裏話をひとつだけご報告しておきます。 2001年9月1日に開封されたタイムカプセルから取り出された作文は、 しばらくの間、中原町教育委員会で保存されていました。 当時、僕がタイムカプセル委員会の代表をしていたため、 取り出された作文の部数や名前のチェックをしなければなりませんでした。 この時、チェックするために使用していた名簿は昭和46年当時の小学校の出席簿でした。 軽い気持ちで夕刻に教育委員会におじゃまして作業を始めたのですが、 その手間がかかる作業に閉口していました。 当時の出席簿は「生まれ番号順」で、四月生まれの生徒名が最初に来るようになっています。 当然「あいうえお順」に並んでいないわけですから、 作文と付き合わせるたびに出席簿の一番上から名前を探していかなければなりませんでした。 当時の状況は開封式で吉田先生が言われたように、 「急遽、作文を書かせることになって、あわてて集めたものだから、間に合わなかった子もいる。」 という話が実感できるように、誤字脱字の添削もされていなければ、名無しの(^-^;作文もありで、 僕は閉庁時間を過ぎてもはかどらないチェック作業に根をあげかけていました。 学年別、クラス別に綴じてある作文を冊子ごとに開いて、 名前を名簿で見つけたらチェックを入れるという作業を繰り返していました。 それが500人分は有にあるのですから、立場上、やらなければしょうがないなぁと自分の尻を叩きながらチェックを続けていたと思います。 何冊めかの冊子を開いたときに、ちょうど先頭の作文が名簿の一番上の名前と合致しました。 「あれっ」と思い、冊子を繰って見ると、そのクラスの冊子は全て男女別に名簿の順番で綴じられていたのでした。 まさか三十年のときを経て、誰がこの作文集を名簿順にチェックをするなんて思ったでしょうか。 もちろん、担任の先生の几帳面な性格がなされた結果に過ぎないと思いましたけれど、 その先生の仕事に対する姿勢と、それを三十年経って知った、たったひとりの当時の生徒として、 僕はちいさな感動を覚えずにはいられませんでした。おかげで、そのクラスの名簿のチェックは三分間で終了してしまいました。 閉庁時間を過ぎて、時々こちらを見られる職員の方の顔色をうかがいながら、 僕は少しだけ嬉しそうな顔をしながらチェックを続けさせてもらいました。 大人になり仕事を持ち、生活をしている中で、そんなちょっとした姿勢が僕の中では緩んできたりしています。誰かがどこかでチェックを入れるわけでは無いのだから、これくらいはいいだろうと言う気持ちがあります。 そんな中で、経験した、ちいさな感動の話をやっぱり誰かに伝えておきたくてUPしてみました。 |
「風の子保育園」 2003.2.18 昨年、開園した「風の子保育園」です。 ちょうど、風の館の東側に位置しており同系色の建物です。 全館、冷暖房付きで駐車場も広く作られています。 僕の子供たちは2人とも中央保育所にお世話になりました。この新校舎を「よかね〜、よかね〜。」と言って見ていました。汗だくになりながらお昼寝をしていた事を思い出していたみたいです。 開園に伴い、東部、西部、中央保育所は統合されました。建物はまだ残っていますけれどいずれは取り壊されるのではないでしょうか。 今年の卒園者からは、ここが私の通った保育園になるんですね。 |
「村山ストアーの店じまい」 2003.2.2 東寒水の村山ストアーが営業を止められました。 村山ストアーの次男の仁志君と同級なので話を聞いたら、 ご両親とも高齢なので隠居なさることになったそうです。 子供の頃は、「ももた」「むらやま」が僕たちのたまり場でした。 小銭を握りしめ、自転車で通ったものでした。高額のプラモデルを横目で見ながら、 くじびきや駄菓子に散財していたものです。 店内をのぞかせてもらったら、「船工作用のスクリュー」(もちろん単品売り^^;)とか 「コマ」(もちろん木製^^;ベイブレードじゃありませんよっ。 なんとコマ用のヒモまで残ってた。)とか「磁石」(もちろんU字型^^;)が ごろごろ出て来ました。 私は気付かなかったのですが、年初より閉めておられたそうです。 それが、小学生の間では話題になっており、 おじさんが病気でもしているんじゃないかと噂になっていたそうです。 時代は変わっても、子供たちのフィールドでは、まだまだ「むらやま」はホットスポットだったみたいですね。 |
「長崎本線の初雪」 2003.1.5 今年も一月に雪が降りました。ちょうど帰省帰りの日曜日の朝の寒波の襲来でした。 実家などに帰っていた方たちは、帰路に影響したのではないでしょうか? 子供の頃は、よくこれくらいの雪は降っていたと思うのですけれど、 今の子供たちにはやっぱり珍しいみたいで、冬休みの間中、 コタツの中から出てこなかった私の子供たちも、この日の朝は一番に雪だまりで雪を転がしていました。 |
「お正月の綾部神社」 2003.1.1 元日の綾部神社の光景です。境内の売店が開くのは、年に数回。 お正月とお祭りのときだけではないでしょうか? 大晦日の夜から、参道には参拝する方の姿が見受けられます。 テレビで報じられる寺社のように行列が出来る事はありませんけれど、 晦日の夜から元日の夕方まで、ぽつぽつと家族や友人達と参拝される方の姿が絶えません。 子供の頃は部落の神社と綾部神社を初詣したものでした。 上地の神社にはお神酒が置いてあって、 お酒の味もわからない子供の頃に真っ赤な顔で深夜徘徊(^^ゞをしていたのを思い出しました。 |
「春の中原中学校」 2002.4.11 春の中原中学校の光景です。 南校舎は、築三〇年ほどになるのではないでしょうか? 私が在学した頃の木造の校舎は枡形の作りで、中庭がある風景が印象的でした。 北校舎を経てその奥に写っているのが体育館です。かつて講堂のあった場所です。 講堂の北にあったテニスコートは今は駐車場になっています。 |
2003.1/13